2011年3月16日水曜日

原発学者たちの良心を疑う - 純丘曜彰


べつに原発反対派ではない。よけいな社会的パニックを引き起こすことを歓迎するものでもない。だが、国内で唯一、実情を国民に説明することのできる専門家たちが、この場に及んでまでも、マスコミの中で奇妙な原発擁護のレトリック(修辞)をこねくり回していることに対し、学者としての良心を疑う。

「「想定外」の大震災にもかかわらず、この程度で済んでいるのは、日本の原発が「優秀」だからだ」などと解説する学者は、まったくの茶番。福島原発に関して言えば、専門家であれば当然にあの問題、いや、一般のジャーナリストであっても、ちょっと調べればすぐに検索に引っかかる問題、すなわち、つい先日、二月二八日の時事通信等の報道を思い浮かべるはずだ。
すなわち、東京電力は、十数年に渡って福島原発で機器点検簿の改竄偽造を行ってきていた。その中に、まさに「非常用ディーゼル発電機」や「空調機」などが含まれていた。この問題に対し、東京電力は、これらは自主点検事項であり、安全上の問題はない、と弁明していた。今回の事故にこれらの機器が直接に関係あるにせよ無いにせよ、こんなずさんな連中を「優秀」なとどは絶対に言わない。

実際のところ、原子力に関して、研究者と事業者、そして、検査者が、まったく同一の学閥に属している。つまり、裁判官と被告と検察が、同じ村の先輩後輩のようなもの。厳しい精査や処分などできる体質にはない。このなあなあの関係に、年金問題と同様の官僚的ないいかげんさが加わって、社会学者ウェーバーの言う「訓練された無能」で、国民を煙に巻く。こういう仲間内の保身体質は、満州事変のきっかけとなった柳条湖事件(関東軍が自分で自分の満鉄を爆破し、それを自分で調べて、中国人が犯人だ、とした謀略)を思い出させる。第二次大戦末期、本土侵攻が迫っているのに、勝っている、勝っている、と言い続けた大本営発表がどれだけ被害を拡大させたのか、忘れたのか。

私たちが、以前、テレビ番組(「朝まで生テレビ!」)で原発問題を討論番組で採り上げようとしたとき、電力会社がテレビ局や新聞社の巨大安定スポンサーであり、その一切の批判がタブーである、という、とてつもなく大きな、見えない壁にぶつかった。それでも、賛否両論を公平に扱うことを条件に、数回に渡って番組とし、大きな反響を得た。だが、そのときも、じつは、裏では、いろいろあった。電力会社側の資料をきちんと調べてみると、出典不明のデータの孫引き、力積単位の話のすり替え、論理のごまかしや誇張がゾロゾロ。あのころから、あれらの資料は、およそまともな研究者や事業者の作るようなものではなかった。

電力会社が、いまでもまだテレビ局や新聞社をカネの力で抑えつけられると思っているのならば、大きな勘違いだ。だいいち、もう当分、電力会社は、マスコミのスポンサーになど、なりえないではないか。この震災で事態は一変した。これだけの国難となれば、現場のジャーナリストたちは、営業の連中が言う「会社の都合」など、もはや聞く耳は持たない。まず国民の味方だ。こういう日のために、ジャーナリズムがあったのだから。もはや世界中のジャーナリストたちも、日本の原発に注目している。この状況で、これまでのような隠蔽体質は通用しない。

「原子炉は止まっている」などと言うが、それは、まともに制御されている場合の話だろう。止まったはずの炉がなぜ冷えないのか。燃料のウランやプルトニウム自体が核分裂性の物質なのだから、炉心損傷時には、溶け落ちて集まった燃料において、再臨界、暴走、さらには原子炉本体の水蒸気爆発、放射性物質の一帯への撒き散らしの危険性さえもゼロではない。これらのことも、専門家なら、知らないはずがあるまい。

いまが大丈夫かどうか、など、だれも聞いてはいない。処理がうまくいった場合の、捕らぬ狸の話も、もう、うんざりだ。専門家なら、これからどうなるリスクがあるのか、東京電力とは距離を置いて、きちんと科学的シナリオ(一連の事件)のすべてを隠さずに客観的、批判的に説明しろ。危機管理は、最悪の状況に対して未然に備えるのが当然であり、どうするか、は、我々一人一人が決めることだ。おまえらではない。

いま、現場の作業員たちの命懸けの努力によって、時間的な猶予が作られているのであれば、我々に打てる対策の余地はある。この貴重な時間を研究者仲間の口先保身のためにムダに費やし、社会的な心理操作までかってにやるのであれば、それは、あきらかに御用学者の越権であり、人道的な犯罪だ。

(純丘曜彰 教授博士(大阪芸術大学・哲学))



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